こんにちは、風待堂鍼灸院の荒木かおりです。
今日は、東洋医学を知らない人に東洋医学の素晴らしさ、面白さを知って頂きたく『東洋医学』について、ざっくりとお話をします。
その為、博識な方から見られたら、至らないところが多々ありますがご容赦下さい。
ここでいう『東洋医学』とは、西洋医学に対しての医学。
つまり、中国から伝来し日本で発展した伝統医学のことです。
順次、以下の様にお話をします。
1)日本における東洋医学の歴史
2)東洋医学と西洋医学の違い【人体や病に対する考え方の違い】
3)東洋医学と西洋医学の違い【診断方法の違い。ならびに、治療方法の違い。】
今回は、『日本における東洋医学の歴史』についてお話をします。
1)日本における東洋医学の歴史
<古代>
日本にも、元々土着の医療があったのですが、徐々に大陸からの医学に押されていきました。
日本に初めて中国の医書が伝わったのは、6世紀半ばと言われています。
<飛鳥時代~平安時代>
飛鳥時代に入ると、遣隋使・遣唐使によって大陸の医学文化が輸入される様になりました。
そして中国の医書が、徐々に輸入される様になりました。
平安時代になって中国の医書を基に、日本に現存する最古の医書『医心方(いしんほう)』が編纂されました。
『医心方』を編纂したのは、丹波 康頼(たんばの・やすより)という先生です。
因みに、俳優の丹波哲郎さんのご先祖様です(゚д゚)!(勿論、丹波康頼先生の子孫には有名な医家の方が多数輩出されています。)
<鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代>
そして、鎌倉~南北朝時代は、医療の担い手が宮廷医から禅僧に替わり、医療の対象が平安時代に比べて一般民衆にも拡大しました。
室町時代に入ると、医師が明(中国)へ留学、明の医学を積極的に取り入れる様になります。
そうやって、中国から持ち帰った医学を徐々に日本独特のモノにしていく基礎ができ始めました。
上記の写真は、現代人に合わせた刺さない打鍼(だしん)です。
この時代の打鍼は、実際に皮膚に刺していました。
<江戸時代>
長かった戦乱の世が終わり、江戸時代です。
この時代は、日本で東洋医学が隆盛を極めた時代でもあります。
様々な流派が起こり、また医学書も多数出版されました。
一例を出しますと、岡本一抱(おかもと・いっぽう)先生の『臓腑経絡詳解(ぞうふけいらくしょうかい)』があります。
岡本一抱先生は、近世医人中最大のブックメーカーと言われ著作数は百冊を超えるそうです。
そして、岡本一抱先生は古医書の解説書を多数書いたのですが、ある日実兄の近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)に
『解説書をいっぱい書いたら、医者が元々の古医書を読まずに解説書ばかりを読む。そうすると、治療を誤る医者が増えるよ。』
という様な内容を言われたそうです。
岡本一抱先生は、それ以後古医書の解説書を書くのを辞めたそうです。
<江戸時代末期~明治時代>
江戸時代末期になると、漢方に蘭学を取り入れる医者も出てきました。
華岡青洲(はなおか・せいしゅう)先生もその一人です。
通仙散(つうせんさん)と呼ばれる麻酔薬で、正式に記録に残る麻酔手術を世界で初めて成功させた医者です。
華岡青洲先生は、他にも『紫雲膏(しうんこう)』と呼ばれる軟膏を発明しています。
そして、明治時代。
富国強兵と西洋化を目指す政府によってドイツ医学が導入され、これまでの漢方(東洋医学)は一転して、廃絶に追い込まれてしまいました。
しかし、漢方の優位性に気づいていた一部の医者によって、かろうじて受け継がれてきました。
この時代の有名な漢方医に『浅田宗伯(あさだそうはく)』先生がいてます。
今も浅田宗伯先生の名前が残るモノに、『浅田飴』があります。
<太平洋戦争後>
そして、戦後。
ペニシリン等の抗生物質が広く普及して、平均寿命は伸び、人々から病による苦しみが取り除かれると思われていました。
ところが、今度は成人病等の新しい病気が人々を苦しめました。
実は、西洋医学は怪我や救急の病気、衛生管理に強みがあったのですが、平和な時代になりやすい病。
つまり、『成人病(生活習慣病)』や『自己免疫系』の病等は、今の西洋医学の技術では苦手な部分だったのです。
なぜ、東洋医学は淘汰されずに現在も生き残っているのか?
東洋医学と西洋医学の違いをお話しながら、東洋医学について説明をいたします。
というわけで、次回の『東洋医学と西洋医学の違い』に続きます。
文:荒木かおり